美唄歯科医師会

想い出

美唄歯科医師会メンバーによる想い出を掲載しています。

扇谷 明典

遠く思いはせれば

 美唄歯科医師会70周年を迎えるにいたりましたことは、まことにおめでとうございます。

◆今年の年賀状の中で!!

 明けましておめでとうございます
 加齢に負けないよう頑張ってますが、声はでるけど、体身が動かず、ボケの花も満開に成って居る様です。明典先生は、いかがですか?皆同じ年ですね。年が明けても嬉しくも 嬉しくも無し 淋しいです。
 遠く思いをはせれば、私が美唄歯科医師会に入会した時は、25才で最年少でした。
 大学卒業・歯科国家試験取得、その年に父が大病で診療休診、病状が悪く、大阪と北海道をいったりきたりでした。昭和33年に北海道に戻り美唄市で開業しました。
 人口は9万人、美唄市西1条南5の赤レンガ造の診療所で開業。南美唄の父の診療所は、三井鉱山の閉山で朝の9時から夜9時までと予約診療でもなく治療の状態でした。亡き母にも月末のレセプトの請求を、手伝ってもらった記憶がなつかしいです。

◆60年の歯科治療の日々を終えて!!

 平成27年5月に家のろうかで転んでしまい右足骨折。手術後、2回目のペースメーカーの電池の埋め込み手術と後、病院の生活に成り花田病院の介護施設でお世話に成ってます。
 週3回のリハビリ、食事はきざみ食完食。よく睡眠を取り、落ち着いた病院生活をしてます。米寿のお祝、又日本でのオリンピックの観戦も楽しみにも楽しみにしてます。家族と共に日々おだやかに生活をしてます。
 美唄人口2万3千人と、今美唄歯科医師会の最年長と成りました。
 会員皆々様の健康を祈り、会の御発展を祈りペンを置かせて戴きます。

大坪 義和

雑感

 美唄歯科医師会創立七十年を迎えることができたことを心よりお喜び申し上げます。思いつくまま振り返ると十年前の記念誌に会としての存続の懸念を記しましたが、現在も美唄歯科医師会として成立しています。これは一重に前会長小森先生の会員の意思を一つにまとめた統率力と種々な課題を乗り越えた努力の賜物と深く感謝しております。
 また、懸念でありました市内児童へのフッ化物洗口が導入されたことは、現会長孫先生の活躍に負う所が多く、子供の齲蝕予防や歯の地域格差解消への更なる一歩となりました。
 そして社保担当理事である吉村先生には会からお願いして、社会保険審査会に出向して頂き、我々会員の大きなサポートとなっています。
 残念なこともあります。元会長の雨田先生、高橋先生、事務を長年担っていました桜田さんが鬼籍に入られました。ご冥福をお祈りいたします。
 これからまた十年、少人数の会ではありますが一丸となって会がさらに発展することを祈念しております。

小森 英世

美歯会創立70周年を迎えて(特にH20年4月〜H30年3月迄を省みる)

 H10年に美歯会創立「50年の歩み」を上梓しましたが、当時の会長宝崎錠二先生の御指導のもと、編者としては大変な作業ではあったが(私も当時46才の若輩であり)既に紛失した資料等数多あったと思うが、雨田元会長の書かれた原稿いまだに多く、曲がりなりにも完成させることができた。
 ただ、その後も雨田先生の原稿執筆多く、60周年記念誌必要と考えた。当時としては電子ブックという言葉すら広まってはいなかったが、経費削減や50周年より10年しか経過していなかったこともあったり、当会はHP等会務運営にITに力点を置いていた等の理由でHP上に創立60周年記念電子ブックを上程した。雨田先生の残りの原稿と宝崎元会長の「この10年を振り返る」の寄稿掲載をもって漸く「50年の歩み」が完成したものと思って、その時点で役目を果たし終えたと考えていた。
 しかし、時間が経てば当然状況も変化し、70周年となるH30年3月末においては、私も会長職を退き(H18年〜H25年3月末)、雨田先生もH22年に亡くなられたり、公益法人制度改革により当会の一般社団法人移行に伴い定款その他規約もすべて見直したり、道8020推進条例とそれに伴なうF化物洗口事業の導入、FC1の活用とi-Pad導入等多くの変化を経験したので、それらの記録を残しておかなければ再びの空白の50年を繰り返すと危惧するに至った。
 会の記録はFC1美歯会デ−タ−ボックスに平成20年よりすべて記録保存されている。私の会長在職時の主な会務内容
  1. 一般社団法人移行に関わる経過
  2. 8020推進条例制定とその後の経過
  3. F化物洗口事業導入までの経緯
 の3点についてまとめておいた方が良いと判断しここに掲載しておきたい。
 御指導いただいた諸先生はもとより会員の皆様には深く感謝申し上げます。
追記

 70周年記念誌完成を見ずに、第5代元会長宝崎錠二先生が本年の1月7日に亡くなられた。
 平成30年(2018年)道歯会通信3月号に訃報を、又、平成11年(1999年)道歯会通信5月号に人ひとヒトを掲載。
 平成26年(2014年)に北海道歯科医師会功労会員顕彰を受賞されており、その際の映像をもって亡き先生を偲びたい。
 謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

一般社団法人移行に関わる経過
  • H20年(2008年)

    公益法人制度改革準備動き出す
    12月道央北ブロック(於ゆ−りん館)でテ−マに

  • H21年(2009年)

    11月 第2回例会
    学校管理委託金の扱い等会費との関連
    経費透明化(費用弁償について)

  • H22年(2010年)

    2月17日 第5回役員会
    3月13日 道歯で美歯会緊急理事会開催
     長江常務、阿野専務、安斉課長臨席、懇親会に富野会長参加

  • H23年(2011年)

    3月24日 第7回理事会 一般社団か任意団体(解散)か決定へ
    定款決議
    6月定款(案)道庁へ
    財務諸表 井戸氏へ
    一般社団法人移行決議
    公益目的支出計画等 井戸氏と

  • H24年(2012年)

    3月 定款、施行規則、旅費規則、規定内規
    6月29日 一般社団法人認可

  • H25年(2013年)

    4月 開始1年目

  • H28年(2016年)

    3月 移行完了
    4月 移行後1年目

道8020推進条例制定とその後
  • H21年(2009年)

    6月26日 道8020推進条例公布

  • H22年(2010年)

    北海道歯科保健医療推進計画(8020歯っぴいプラン)(H25年度から平成29年度までの5年間)

  • H23年(2011年)

    歯科口腔保健法制定(国)
    5年毎に条例の施行の状況について検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずる

F化物洗口事業導入まで(の経緯)
  • H22年(2010年)

    4月 F化物洗口事業取り組み検討
    12月 保護者説明会

  • H23年(2011年)

    8月美唄市 F化物洗口事業に関する打ち合わせ会
    11月12日 かきき道議政経セミナ−で推進を陳情
    道福祉部長、高橋市長、中川美唄福祉部長推進を言明

  • H24年(2012年)

    2月 保育所8園スタ−ト
    幼稚園2園スタ−ト
    5月 職員説明会
    10月〜11月(6日間) 秋野先生、孫先生、滑川先生 小学校職員説明会

  • H25年(2013年)

    1月 保護者説明会(小学校6校に対し)
    美唄市小学校F化物洗口開始(試薬小森担当)

  • H26年(2014年)

    小6年生が中1に(中学校未実施)(試薬小森担当)

  • H29年(2017年)

    同、高1に(高校も未実施)(試薬工藤先生担当)

川上 譲治

美唄歯科医師会に入会して10年が過ぎて

 美唄歯科医師会に入会し10年が経過しました。私は平成2年に歯学部を卒業後、当別にある大学病院に16年勤務しておりました。当初は札幌からでしたが平成8年に美唄に引っ越し、車で30数分と札幌と、ほとんど変わらない時間で通勤していました。一方、卒業から数年後に北海道歯科医師会に準会員として入会し、道歯会通信が毎月送られてきてました。引っ越した頃より美唄歯科医師会の雨田先生が毎月のように投稿されていた論壇を拝読するようになりました。その中で、今でも記憶に残っていることは「美唄の夜明け」という表題の論文でした。その中では、炭鉱があった時代は美唄市内も活気があり、市民も最盛期には人口9万人で映画館が2館もあったそうです。また、日常の歯科診療も非常に忙しい毎日との事でした。しかし、その頃は人口もかなり減少してきていたという事でした。私が開業時の平成18年では美唄市の人口は2.8万人と全盛期時代の1/3以下で、現在の平成29年ではさらに減少し2.2万人になっております。また、全国の814市の中で住みよさランキングは809位、全道では35市中33位との事で下位ベスト3という報告(東洋経済刊:都市データパック2017版)もありました。さらに市の試算では今後も人口は減っていくばかりで、いずれは2万人を切るのではないかとのこと、美唄市に夜明けが来るのかと今後、市や美唄歯科医師会の存続が心配になります。新しい産業・企業などの進出を願いたいと思います。
 美唄歯科医師会に入会し、当初は総会や年に数回の講演会、学校検診、数年に1回のふれあい祭りに参加していただけでした。しかし、会員数が少ないため直ぐに理事になって、歯科医師会の仕事も増えました。市内での会議や北海道歯科医師会への出張など、診療の傍ら毎年かなり忙しく活動しています。その中でも、医療管理・厚生・税務担当の理事を行っていた時には、医療事故について、救急薬の準備状況や購入、歯科医業経営内容調査、災害・入院補償共済保険、税務講習など個人的にも勉強になる会議や講習会でもありました。特に共済保険については歯科医師会に入会しているメリットについても理解することが出来ました。現在は広報担当で、道歯会通信に原稿の投稿などが主な役目になっています。
 現在の美唄歯科医師会は、17人で道内の歯科医師会の中でもかなりの少人数の会であります。そのため普段は、会員みなさんで協力し合って活動しています。今回、70周年記念という事で、これまでの諸先輩方の先生が積み上げてきた歴史ある歯科医師会という事で日々頑張っておりますが、願わくは、何とか100周年まで存続できるように努力したいと考えていますので(その時、私は83歳となります)、美唄歯科医師会のみなさん、健康に留意し元気で長生きしましょう。

工藤 泰裕

美唄歯科医師会創立70周年によせて

 父、泰延が当地で歯科医院を起こしたのが昭和34年のことです。
 そこに至る経緯を少し。
 日本大学歯学部を卒業後、神奈川県川崎市の開業医に勤務、次いで東京都日本橋で同郷の岩沢忠正先生と共同で開業しました。診療所はその後、懇意の歯科医に譲渡。岩沢先生は日本大学歯学部矯正歯科学教室へ進み、後に教授就任。父は帰郷し開業、29歳の時です。
 ここまで母に聞いた話。

 当時の美唄市は人口9万人に達しようとしていた頃で、幼稚園と小中学校の児童生徒数だけで23,387名というから驚きです。(創立60周年記念電子ブック、桜田昭美氏より)

 診療時間は午後5時までと標榜していましたが、終わるのはいつも6、7時。夕食を待つ子供としては深刻な問題でした。若い両親、元気な二女二男の6人家族。懐かしい思い出です。
 その父が亡くなったのが平成6年4月1日。診療の合間、休憩中に意識を失い美唄労災病院に救急搬送されました。脳血管出血のためそのまま意識を回復することなく永眠、享年63歳でした。

 私はその時、北海道医療大学の矯正歯科学教室に在籍していましたので、工藤歯科医院の今後と自分の矯正歯科医としてのキャリアをどう活かすかで悩みました。
 結局、平成6年9月、岩見沢で矯正歯科専門「くどう矯正歯科」の開業と父の「工藤歯科医院」を引き継ぎました。

 岩見沢駅前の道路拡幅工事に伴うテナントビル取り壊しのため立ち退きを余儀なくされ、医院機能を峰延医院に一本化「工藤歯科・矯正歯科医院」として平成27年6月、当会に入会しました。
 私が岩見沢歯科医師会から移動してきてまだ2年、語るべき過去がありませんので、この機会に「50周年記念誌」と「60周年記念誌」を読んでみることにしました。
 これが実にすばらしい。興味深く拝見しました。先人の活躍に敬意を表し、その経験に学び、明日の道しるべにしたいと思います。そして当会の歴史をかんがみ美唄歯科医師会が末永く存続するよう努力する決意をしました。

 現在、息子が明海大学歯学部の6年生です。
 息子がどこで何をするかは本人の意志を尊重します。ただ彼ら若い歯科医師の未来が輝かしいものであることを祈ります。

 ついでながら、生まれ年を以下に。

  • 泰 延 昭和 5年 午年(1930年)
  • 泰 裕 昭和37年 寅年(1962年)
  • 健一郎 平成 6年 戌年(1994年)

 今この記事を書いているのは平成29年9月です。
 最近のおもな出来事を列記します。

  • 天皇陛下ご譲位の意向
  • 北朝鮮核実験とミサイル発射
  • 日本人拉致事件未解決のまま
  • 安倍晋三首相憲法改正へ始動

 サイレン、子供らが身を伏し両手で頭を覆う。ミサイル攻撃に対応した訓練です。
 この現実を見た時、国防が最大の福祉という言葉を思い出しました。
 将来、これらの事案が解決し日本の国益と尊厳が守られることを希望します。

 そして最後に、昭和6年生まれの母は元気です。

孫 泰一

 70週年の電子ブックでこの10年を書くにあたり、この10年間何をしてきたのかと随分考えました。
 個人的には勿論色んな事がありましたが、歯科医としては美唄の歯科医師会の会長になったことと、後は自分自身歯科医としてリタイヤの準備をしていることが、この10年間の活動と私の現状です。
 小森前会長の後を次いで、第7代の美唄歯科医師会会長となり2期目で3年になりました。
 私以外にも適任者が居たとは思いますが、数の少ない美唄歯科医師会会員の中各自の理由があり私の順番になったのだと思います。
 正直私には大任でしたが、自分の生まれ育った美唄でリタイア前に地域に貢献する意味も考えお引き受けました。
 私が美唄歯科医師会に入会した時の会長は雨田先生でした。
 その雨田先生も亡くなられ、その次の会長だった宝崎先生も今年亡くなられました。
 公私共にお世話になった宝崎先生の葬儀委員長をお引き受けしたことも、私にとって意義の有ったことと考えさせられます。
 今は仕事よりも趣味に軸足を移して、63を過ぎリタイアを考えています。
 この次の10年後つまり本会の80周年には生きているとは思いますが、歯科医はしていないと思います。
 美唄歯科医師会は人数が全道で1番少ない歯科医師会ですが、その分ほぼ全員参加でまとまりが有り会員皆さんの意見も反映される良い形の歯科医師会だと思います。
 私の後任の会長にも、この特性を活かした歯科医師会の運営を継続して頂けることを切に願います。

高橋 典弘

70周年!!

 前回の記念誌よりもう10年経ったのですね。早いような遅いような。バイオテクノロジー、AIなど、この10年でめまぐるしくテクノロジーは進化し、特にデジタル化は次から次へと早い事。歯科界でもその恩恵は計り知れないと思います。
 そんな中で60周年記念誌に報告させてもらいましたが、私のアナログ的な生活は変わっていません。私はまだ「ガラケー」、しかも外界とは電話機能でしか繋がっていません。ケイタイIDはなしLINEなんかあるわけない、Jアラートも届かない。(さすがにメールはPCでは通じてますが。)TVや雑誌などでは違いのわからないローマ字の省略記号、説明されても意味不明の単語などなどあらわれていますが最近は調べることも諦めています。
 また、実際に質感、重さなど手で確かめることなく何でもネットで買えるようになってしまい、音楽までレコード盤やディスクメディアなしに手に入ってしまう時代にびっくりです。
 今日も家では40数年前のプレーヤーが現役で音を出してます。決して現在のデジタル技術による音質には劣りますが、針の音、雑音、意表を突いた音飛びなど味があります。また何よりLPジャッケットには「あのサイズ」に凝縮された芸術性、温かみを感じます。CDサイズではちょっとアピール不足かな。
 ブルーン、ブルルーン、ブルルルル〜ン、バタ!バタ!バタ!
 久しぶりに74年式VW type1(通称 Beetle)のエンジンに火を入れる。
 いぶし銀のキャブレター、地を揺るがす排気音に重なり、カーステ(カセット)から「時間よ〜止まれ〜」とE.YAZAWAの歌声が響く。(ちなみに2017年のライブは1列目中央をゲットしました。)
 ちょっとノスタルジーにドライブへ
 テクノロジーの進化は当然必要ですが、時代が変化しても「ぬくもり」は大切であると思います。
 さあ次の10年はどんなことになっているでしょう!

滑川 貴彦

美唄歯科医師会70周年

 美唄歯科医師会創立70周年おめでとうございます。
 自分の開業は2001年。その当時 札幌にて勤務医をしながら、開業前の挨拶の際に会員の先生方に温かいお言葉を頂いたことがつい先日の様に思い出されます。
 そんな自分の診療所も本年ようやく17年目を迎えることができました。これも諸先生はじめ沢山の方々のおかげです。今後も歴史ある美歯会の一員として、地域医療に微力ながら貢献していきたいと考えております。
 最後に会員の先生とご家族及び関係者の方々、そして事務の近藤さんの益々のご発展とご活躍をお祈りしております。

宝崎 幸子

私、91才元気です!

 記念すべき美唄歯科医師会創立70周年おめでとうございます。
 ついこの間50周年をお祝いしましたばかりのように思われますのに・・・
 歳月の流れはとにかく早いものであります。この地に根をおろしてから73年?・・・昭和28年開業以来歯科医師会に在籍し、実に65年にもなります。
 かつては患者さん、患者さんで日々あけくれておりましたのに・・・・
 平成12年に閉院し診療から離れた当初は、いつも一週間歯科で働いていた毎日が今は家事(掃除、洗濯、食事のこと)いっさいに変わったことえの抵抗と言いましょうか(こんなことしていていいのかしら・・)と患者さんのことばかりが頭から離れず心苦しく何ともいいようのない思いをしたものであります。
 今は亡き母がごはんの水加減や炊き方(今は電気釜で)お味噌汁のだしのとり方など手とり足とりして教えてくれましたことがなつかしくただなつかしく思い出されます。
 世の中はどんどんと変わってゆきます。
 せめて趣味の合唱で声を出しながらの暮らしをして行きたいものと思っております。
 ようやく今は世間の主婦らしくなったでしょうか?
 先づは健康第一で!と考える日々であります。
追記

 弟(宝崎錠二)は誠に哀しい事ですが、本年1月に享年88歳を一期として亡くなりました。
 茲に皆様に生前賜りました御厚情に深く感謝したいと存じます。

宝崎 さゆり

 美唄歯科医師会の10年の振り返りはちょうど私の美唄での開業10年の振り返りになる。
 始めたばかりの頃は経営という責任の重さに知らず知らず精神面がやられて体調を崩し、友人の病院に時間外でお世話になるとゆう迷惑を何度かかけてきた。
 歯科医師会とはある種ライバル同士の集まりで不思議な集まりにも思えるが、みな抱えているものは同じようなものであり、自院の事だけでなく地域のためにも頑張っている他先生達の姿は、そんな私にとっては大きな励みになり力を与えてくれた。みな気さくでちょっとした疑問に答えてくれたり、個性豊かでいろいろな楽しい話を持っていて刺激をもらっている。
 思えば歯科医師会は父が歯科医師で会員である私にとってはかなり小さい頃から馴染んだ名前だ。その頃は自分がお世話になるとはみじんも思っていなかったが、父がやってきた事が少し分かるようになってきた。私も歯科医師会を通して地域や他先生たちに少しでも力になれたらと思う。力不足ですが。
追記

 ここに長く美唄歯科医師会に従事してきた父(宝崎錠二)の事を書かせて頂こうと思う。
 10年の振り返りの原稿があった頃、父は持病の腎不全により体調を崩し始めていた。まじめで会の事もしっかりやる父であったが、締切が近くなってきた入院中に「書かないとね」と言いつつも書くことは無く平成30年1月7日に息を引き取った。
 娘が言うのはおこがましいが、父は人として素晴らしかったと思う。常にどうするのが一番良いかを考えて行動していたように思う。それは自分にとっての一番では無く周りの人にとっての一番である。そしてそれが自分にとっても一番良いと信じていたと思う。よく親子で診療すると衝突すると聞くが、私は全くそうゆう事が無かった。それは父がベースを作りつつも私がやる事に口を出さなかったからだ。きっと歯科医師会においても同じようであったと思う。そういった父の行動は即効性は低いがじわじわと効き目があり持続する事を後になって知る。人はどうしても何か行動をすると結果を直ぐに期待するが、直ぐに分かって貰えずともわかる人にはいずれわかる、誠意をもって行動したならそれでいいと身を引ける強さは生き方として私の指針である。最後に父の強さを支えたのは母の存在である事も付け加えておく。今日も父の遺影は「何やってるのさ」とニヤリと笑っている。

村上 孝男

 70周年記念誌発刊おめでとうございます。形式上でも美唄歯科医師会の会員なら寄稿せよ、とのことで、短文ではありますが、近況報告をさせていただきます。
 会のほうは最近ご無沙汰しており、閉院したのでは?と思われている方もいらっしゃると思いますが、まだ細々と営業させていただいております。悪いことに、昨年末(平成29年)の台風並の強風にて、当院の看板が破壊され、世間一般にもそう思われている方も多いようです。古くからの患者さんからも時々「まだやっていますか」と電話がかかってきます。
 それはともかく、最近の活動としては、歯科医師会枠の介護認定委員、休日当番、など参加させていただいております。特に前者の方ではささやかながら美歯会に貢献しているのではと自負しております。というのも、これが結構たいへんで、会合は1〜2時間程度ですが、事前の資料読みに数時間要します。暇のある私でも時々嫌になります。お忙しい会員の皆様では大変なご負担になるのではと思います。こちらがそろそろ介護を受ける立場になるのではと思いながら、利用者さんに不公平にならないようにと頑張っております。
 ということで、あと数年はご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

近藤 理恵

 美唄歯科医師会創立70周年おめでとうございます。
 私が今は亡き桜田さんの後を事務員として努めさせていただくこと、早くも15年目になりました。ちょうど美唄歯科医師会にIT導入ということもあり、会員の皆さまにメールにて会務やお知らせなど配信するなど、慣れないパソコン操作に四苦八苦していた事を思い出します。
 特に、平成24年に一般社団法人移行への各種手続きの中で、会計については就寝中にも頭の中では考え悩んで胃が痛くなることもありましたが、前会長小森先生や理事の先生のご尽力のおかげでどうにか手続きが済、移行することができました。その後平成28年からは公益目的支出計画も無事終了しほっとしています。
 また、この仕事をするようになり、自分自身や家族を含め口腔に対する意識が変わった事は言うまでもありませんが、おかげさまで健康意識も高まりました。
 もともとスキーはやっていたのですが、夏はロードバイクで体力維持に努めています。(休憩のおやつタイムが目的でもありますが...)子供たちも独立し、今後の老後を考えていくとまずは健康である事が一番!!
 これからも美唄歯科医師会のますますのご発展と会員の皆様のご健康を御祈念申し上げます。